January 2005

猫ちぐら

05-01-17_10-47.jpg新潟から取り寄せたキンタお気に入りの猫ちぐら。

無題

ある雑誌に掲載されていた吉田松陰をテーマに書かれた戯曲を読む。つまらなかった。説明科白ばかりでとてもとても‥‥。何であの程度の作品が演劇雑誌に掲載されるのだろうか。自分も松陰の生涯を描いた戯曲を書いた事があるので痛切に思う。

「ひとり舞台×5」の一回目を3月14日〜16日に行う。一人芝居をする方を5人集めて行う公演だ。一人の持ち時間は二十分。力のありそうな方達が集まってくれたので、面白い公演になるだろう。

東京で暮らす

なぜ今東京で暮らしているのだろうと、ふと考える事がある。大学で学ぶ為に東京へ来た。それ程東京に憬れていた訳ではない。演劇をやろうなどとは微塵も思っていなかった。兄が東京の大学へ入り、それに習って僕も故郷を出た。と言うよりも、僕の回りでは、高校を出たら東京の大学へ行くというのが当たり前の進学コースだった。今思えば、自分では何も考えていなかった。ただただ東京へ東京へと‥。でも、そう言えば、一度だけ「京都」の二文字が頭にちらついた事がある。高野悦子さんの「二十歳の原点」の影響だ。彼女が通っていた立命館大学へ行きたいと思ったのだ。彼女の日記は衝撃だった。自分はなんて幼稚なのだろうと真剣に落ち込んだ。しかし、結局僕は東京を選んだ。もし京都へ行っていたら、今僕は何をやっているだろう。

低迷

日記というものは書かなくなるとほんと書かなくなる。当たり前か。
ここの所、物事が思い通りに運ばず、気持ちが落ち気味の毎日が続いている。
この一月で劇場も三周年を迎えた。めでたい。でもまだまだこれからだ。気持ちを引き締めて頑張ろう。

韓国でも名古屋でもホームレスの事が問題になっている。自分としては複雑な心境だ。敢えて意見を言う事は避けよう。経済的に豊かな人も貧しい人も総じて自分勝手に振る舞い、我が儘放題な昨今、何が正しく、何が間違っているのかよーく吟味しないと判断を誤る。

恩義

「役者★魂」シリーズの審査員をやって頂いた映画監督のMさんから大映テレビのKプロデューサーの訃報を聞いた。ショックだった。昨年の十一月の事だったらしい。作品が完成し、その放映日が決定したので会社の人がKさん宅に電話をしたのだが、出ない。作品が完成したので骨休めに旅にでも出たのだろうと別段気にも止めなかったらしい。その後、電話に出ないのを不審に思った息子さんが行ってみると‥‥。脳溢血だったらしい。すでに一週間が経過していた。奥さんも亡くなり、一人暮らしだったと監督から聞いて初めて知った。誰にも気付かれず一週間とは、せつなくて涙が出る。年齢はすでに七十を越えていたはずだ。最後の作品はぜひ見たかったのだが、昨年暮れにすでに放映されてしまったとの事。Kさんはきっと天国から見ていただろう。現役のプロデューサーとして死を迎えたKさん、さすがだと思う。
Kさんは「007は二度死ぬ」を担当し、かつてのテレビドラマ「ザ・ガードマン」も手掛けた人で、僕がお付き合いさせて頂いていた頃は、二時間ドラマ全盛の頃で、Kさんも年間何本も制作していた。僕も何本も出演させて頂いた。もう二十年程も前の事だ。そう、あれから二十年も経っていたのだ。
二十年前、僕はある人と二人で、Kプロデューサーを顧問にお迎えして「東京俳優センター」という俳優養成所のようなものをやっていた。多い時には三十人もいただろうか。僕もまだ若かった。今考えると、あの頃のKさんは今の僕と同じくらいの年齢だったのだ。何だか不思議な気がする。あの頃のKさんは貫禄があった。プロデューサーというよりは役者の雰囲気を漂わせていた。親分肌だがシャイな性格で、僕はそんなKさんが好きだった。センターはどのくらい続いただろうか。実は僕が三年程でセンターをやめて、センター自体はその後も続いていたらしいのだが‥‥。僕は何の挨拶もなしに突然やめた。まあ、いろいろ事情はあったのだが、お世話になっていたのに何のお礼も言わずにやめてしまった。いつか謝ろういつか謝ろうと思いながら、ついに謝る事が出来なかった。
Kさんから頂いた役で一番大きな役は、夏木陽介さんと共に事件を追いかける井上という刑事の役だった。科白もシーン数も多かった。Kさんはおそらくゴリ押しして僕を入れ込んでくれたのだと思う。ロケ現場で、カメラの前に立つ僕を遠くからそっと見ていたKさん。あの心配そうな顔。まるで僕の親父のように。
恩義は大切にせにゃいかん!肝に命じる。
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